1964年「東京オリンピック」で金メダルを取った女子バレーボール、この金メダルは日本中にバレーボールブームをもたらし、「アタックNO.1」などの作品も生まれたほどです。
「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーボール日本代表メンバーは東京五輪前に引退を表明していたというのです。
なぜ引退しようと思っていたのか、そして「東洋の魔女」のメンバーはその後どのように過ごされているのか紹介します!
1964年東京五輪女子バレーボール日本代表「東洋の魔女」メンバーは?
1964年東京オリンピック日本代表メンバーは大日本紡績株式会社(のちにユニチカとなる)の貝塚工場の女子バレーチームで1955年に結成されました。
結成から1年あまりで国内の数々のタイトルを獲得、5年後には1960年世界選手権で準優勝しました。
「東洋の魔女」メンバー(敬称略)
河西昌枝(主将:当時31才)
松村好子
宮本恵美子
佐々木節子
谷田絹子
磯辺サタ
半田百合子
篠崎洋子(当時19才:最年少メンバー)
松村勝美
藤本佑子
近藤雅子
渋木綾乃
「東洋の魔女」メンバーは東京五輪前に引退するつもりだった?
東京オリンピックでの活躍で「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレー日本代表メンバーは、オリンピックの2年目に行われた世界選手権で優勝したあと引退を表明しました。
その理由はメンバーたちの年齢が約20才~30才で「結婚適齢期だった」ためです。
世界選手権が行われた1962年の時点では、女子バレーボールはオリンピックの正式種目でなかった点も引退を考える要因だったのではないでしょうか。
しかしのちに1964年の東京五輪から女子バレーが正式種目に加わることになり、「東京オリンピックまで続けてほしい」と日本バレーボール協会から打診があり、また多くのファンからの声によって2年間存続することになりました。
それからオリンピックが開催されるまでの期間、メンバーたちは午前中は大日本紡績での仕事をこなし、午後から夜中の2時ごろまで練習に励んだそうです。
「東洋の魔女」メンバーの引退時期とその後は?
東京五輪「東洋の魔女」メンバー引退はいつ?その後は?まとめ
1964年東京オリンピックで女子バレーボールが初めて正式種目に加わり、金メダルを獲得した「東洋の魔女」のメンバーがいつ引退したのかについてと、その理由について紹介してきました。
1962年の世界選手権以降、東京オリンピックまでの練習は過酷なもので、監督であった大松博文さんもオリンピックが終わり燃え尽きたように大日本紡績(ニチボー)を退職しています。
「東洋の魔女」が築いた女子バレーボールの強さがまもなく開催となる2度目の東京オリンピックでの日本女子バレーボールにも引き継がれていることでしょう。
最後までご覧いただきありがとうございました。